嫌いと表明すること

自分は嫌いという表明することは好きではないが、そういうことを適度に表明する人は生きやすそうに見える。自分もそういった感情を適度に表明していきたいが、その辺の上手な振る舞い方がわからない。

人には好みがあってこれが好き、これが嫌いというものが当然存在している。自分は恐らく平均的な人間よりも嫌いなものが多いと思い込んでいるが、嫌いな概念に対してはあまり主張しないように振る舞っている(それでもにじみ出ている部分は有るように思う)。というのも負の感情というものは基本的に他者に対してあまり良い感情をもたらすことができないからだと思っていて、同様に自分が他者から負の感情を表明されると少なからず複雑な気持ちになるからだ。自分が好きなものであれば尚更。

その一方で嫌いという感情を適度に表明している人は生きやすそうに見えることがある。嫌いという感情を共有したもの同士で共感したりだとか、嫌いという観点からこそ得られる視点というものも少なからずあるように見える。

嫌いという感情を向けるのではなく物事に対して良さを見出したり共感までせずとも理解をした上で、「こういった考え方もあるんだな」という一つの受け入れる姿勢でいるべきというありふれた答えにいきつく。


「自分の考え方を変える」と言った行為をするとき、そこに自我は存在してるのかと疑問に持つことがある。自分の中にはなかった概念を外野から取り入れるとき、
例えば自分の中にあったある嫌いという感情を持った概念に対して、好きとまでは言わずとも受け入れるという妥協の考えまでもっていくときに「認知を矯正させる」感覚がある。矯正された概念はあくまでも外部からの力によって歪まされた認知であり、そこには自分の意志がない(自分の中にある意志はあくまでも嫌いという認知のため)。果たしてこれは正解なのだろうか。自分の中にあったある負の感情は外部の力によって自分の感情ですらなくなってしまう。認知が歪められた概念を直視できなくなる。「自分は好きではないけど好きな人もいるよね」というものに対してどちらの気持ちも分かってしまうと自分自身の主張がうまくできなくなる。

ここまでを踏まえると他者の気持ちも理解した上で自分の気持ちを表明することが一番良いのだろうか?振る舞い方がわからないことを整理したかったので解決方法は知らない。どう振る舞えば良いんだ。


  • 「何を考えているのかよくわからない」とはよく言われるが、自分の中にある感情を吐露したところで負の感情が多すぎて人間性を疑われる自信があり、あまり表明することができない。
  • この投稿を書いたところで「自分は周りの顔色を伺いすぎなのでは」と感じるが、これはもう自分がそう生きてきてしまったのだから仕方ない。自分の好きなこと・嫌いなことを周りの顔色を伺わずに表明できる人は素晴らしい。